「スティーブ・ジョブズ」を読んだ
約1ヶ月をかけて、巷で話題の「スティーブ・ジョブズ」の2冊を読み終わった。主に通勤電車の中での読書だったが、2冊の本はともに千ページを超えるものだったので、電子書籍版(Sony Reader)を購入した。
僕自身はかなり昔からコンピュータに関わっていたので、当時を思い返しながら割と楽しんで読めた。逆にジョブズがピクサーに関わっていたことは知らなかった。
人物像としてはかなり個性的で、日本ではこういうタイプはなかなかいないし、いたとしても会社の名の下に粛正されてしまうのが落ちだろうという気がした。日本に彼のようなクリエイターが現れない理由がわかるような気がする。
良い製品を作るために妥協を知らない姿勢、お金儲けは2の次という姿勢は他の人たちは大いに見習うべきだ。巷に溢れる多くのものがつまらなくなってしまっているのはこの2つが欠けているせいだと思った。また、彼のような個性(別に彼ではなくてもいいのだが)を支えるだけのゆとりも大事だ。僕のいる会社なんてまるで奴隷工場だ、なんてここで愚痴ってもしょうがないが(笑)
たしかにAppleの製品は自分が製作側に回らない限りは不満は少ない。それは本書にあるジョブズのこだわりを知ればなるほどと納得できる。逆に僕のようなサンデープログラマ(たいしたレベルじゃないが)には敷居の高い世界である。まあそれもこの本を読めばわざとということがわかるのだが。
さあ、MS、次はあんたたちの番だ(違)
2011年11月23日 | コメント&トラックバック(0) | トラックバックURL |
シータヒーリング
今更でもないけどずっと前から精神世界(スピリチュアル系)に興味があって、本を読んだり、若い頃にはセミナーなんかもよく行っていた。
ここ10数年はひとまず忘れて真面目に仕事をしていたけど、それでもヘミシンクとか面白そうなものをみつけると本を買ったり、CDを聞いてみたりとか。人間誰しもそう思うように幸運であるのに越したことはないから、どうすればそれが叶うのかということをここ最近は追究していた。やはり楽に生きていければいいな、と思うし。
そんな試行錯誤を繰り返しているうちにたどりついたのが「潜在意識」。ここをなんとかすれば良さそうというのはわかったけれど、どうすればいいのかというのは不明だった。上で掲げたヘミシンクなどもその方法のひとつとしてあるのだけど、いまいち僕の中では決定打に欠けるような気がして。ヘミシンクのCD聞いているとまず間違いなく眠りに落ちてしまうし。
その他にもサブリミナル系のCDとか潜在意識にアプローチできそうなものはいろいろチャレンジしたけれど、自分のやりたいようにする、という点においていまいちのような気がした。実際効果があがっているのかもよくわからなかったし。
その中でこの「シータヒーリング」は1つの可能性として注目していいような気がした。上の本はかなり難解で読んでいるうちにそのまま眠りに落ちてしまうこともよくあり、独学でマスターするのはすごく大変なような気がした。そこで実際にセミナーを受けてみようと思い、基礎講座に足を運んだのが今から約1ヶ月前。
3日間のセミナーで果たして自分が基礎をマスターできたのかは正直疑問だったけれど、講座の中の実習でいくつかやったヒーリングのおかげで、その後の仕事上のストレスが少し減っているような気がした。しかしながら自分一人でできているのかは自信がなかった。なので1ヶ月後となった今週のお盆期間に応用セミナーを受講することにしたのだ。
応用講座は新たなことを学ぶというより(当然学ぶ事もあるのだが)、自分の中をクリアにしていくということに特化していく時間のような気がした。数々の「ダウンロード」とかブロックの解放という一連のワークが3日間のなかで幾度となく繰り返された。そのおかげでまたちょっと自分の力が抜けていったような。そして少しは自分でもできそうだ、という自信を持てたかもしれない。
いろんなもので硬直した自分を少しずつ緩めていく、そんな感じがするのがシータヒーリング。
2011年08月19日 | コメント&トラックバック(0) | トラックバックURL |
いつか来た道「1日10分からのソーシャルネット入門」
今更いうまでもないが、Twitterやmixi、facebook、GREEなどソーシャルネット全盛の昨今である。
次から次へと「新しい」ものが出てくるので若い人ならともかく、僕のようなおぢさんはついていくのも大変だーと思う今日この頃である。
ちょっと前なら造作もなくできていたことが、辛く感じてしまう。こんなところが歳なのかなぁと思ったりしないでもない。
この本はそんな多岐に渡るソーシャルネットワークとどのように付き合っていけばいいか、という手ほどき書であるわけだが、読みながら
いつか来た道だ
という思いを強くした。
記憶をたどるとそれはかれこれもう四半世紀も前の「パソコン通信」と呼ばれていた時代のものなのだ。
当時はまだネットワークは世界中とは繋がっておらず、アクセスポイントと呼ばれる電話番号に電話をかけ、パソコンをモデムで接続する必要があった。
当時20代であった僕は「パソコン通信」を始めてしばらくすると毎週のようにオフ会に参加するようになった。誘われて出かけることもあれば、自ら主催することもあったが、そのときの集まりがまさにこの本でいう「ソーシャルネットワーク」的だったのだ。オンラインで知り合った仲間もいれば、オフ会で参加者が自分の知り合いを連れてくることもあった。そうこうしているうちに知り合いの輪が増えていくのだ。
集まりは基本は和気あいあいとしたものだが、時にはちょっとした諍いがあったりすることもあった。残念ながら当時の仲間たちとの付き合いは今は絶えてしまったけど、本書を読みながら懐かしく思い出した。長い年月をかけて世の中は螺旋階段を1周してきたのではないだろうか。
ただし、今回できる「仲間」たちのスケールは以前とは比べ物にならない。なにせ舞台は世界まで広がっているのだから。
2011年06月07日 | コメント&トラックバック(0) | トラックバックURL |
インターネットと俳句

普通、俳句や短歌、あるいは川柳などの短詩形に触れるのは小学校や中学校の授業だったりする。
かくいう僕もその例に漏れなかったわけだったけど、ひょんなことからこれらの短詩形と再会を果たすことになる。
もともとばりばりの文系で、本を読むのが大好き、たまに自分で文章も書いてたわけだけど、正直それが何年もの長きに渡って続くなど到底思ってなどいなかった。
きっかけはタイトルにもあるようにインターネット、当時はまだ「パソコン通信」と呼ばれていた時代だった。
現在のように月額定額でアクセスできるような環境ではなく、接続するにも普通の電話線をモデムというものにつないで、パソコンからダイヤルするといったものだった。「ネット」で扱えるのは文字情報だけで、画像や動画などはまだまだ夢の時代だったが、この新しい世界で何ができるか、という創意に周囲は溢れていた。
そのなかで不意に出番を与えられたのが「575」の短詩形だったのだ。最初は文字の世界でただ575を連ねる(今風にいえばつぶやく)だけだったが、そのうちしりとりにしてみたり、チャットの発言をすべて575にしなければならない、などと文字だけの制限のなかでそれなりに「遊び」が出てきたりして、狭い世界の中でちょっとした流行になったりもしたのだった(あくまで自分の周囲の世界だけの話だが)。そんなことで次第に短詩形に馴染んできて、そのときに出会ったのが上の「俳句であそぶ法」という本なのだった。この本は575を守ることと、季語の重要性を熱心に説いた本で、すでに現物は手元にないけれど、そのとき僕の中で「俳句」というものがすとんと中に落ちてきたのだった。
その後もいくつかもBBS(今でいうとSNSチックな掲示板システム)で俳句のボードを開設したりして、当時を知る人は僕のことを「師匠」と呼んだりする人もあるが、そのいわれはこのようなものである。この時期はリアルの世界でも俳句や川柳(季語のない俳句のようなものだが)もつくって地方文芸誌に投稿などもしていた。でもこういう短詩形(あるいはふつーの文章でもそうなのかもしれないけど)を作って楽しいのはみんなでわいわいやることなのかもしれない。
葉の落ちて 見つけられたる かくれんぼ
咳が出て なんの咳かと 考える
つまりその なにもいえずに あなたの背
当時の短詩を記憶の中から3つほど。今こうやって書きだしてみるに、やっぱ当時は若かったな(笑)
コンシンして 婚姻する 恋もあり
強風に 負けずに叫ぶ 猫がおり
忘れてる 記憶探しに 里帰り
今、即興で作った。たいしたことないな(笑)
2011年05月21日 | コメント&トラックバック(0) | トラックバックURL |
いまさらながらの話題だが、巷ではFacebookが流行り始めているようだ。かくいう僕もだいぶ前にIDをとったりしたのだけど、当初はどう使えばいいのかさっぱり分からず、放置状態。ここにきていろいろ日本語の本も出てきて、次第に一般にも認知されるようになってきた。無論、映画「Facebook」の果たした役割はいうまでもなく、映像としてみてやっとそれを使うシーンがイメージできてきたりとか。僕は映画見ていないんだけど(^_^;)
Facebookは実名登録しなくちゃいけない、とか、これまでの日本のネット文化になかったものを要求してくる、ある種の「異文化」でもあるわけだけど、結果これまで遊離していた現実社会とネット社会の融合が期待できる世界でもある。それがいいか悪いかという議論も出てくるだろうけど、ともあれまずは使ってみて、功罪を議論するのはそれからでもいいのではないかと個人的には思う。もちろん、使うに際しては大人であることが要求されるとは思うけど。
漠然とした語り口が続いて恐縮だけど、何せ僕自身がお世辞にも使いこなしているとはいえない。ともあれ、まず一歩として、設定が間違いなければこの書き込みはFacebookにも反映されるはずである。
・・・おあとがよろしいようで。
2011年04月18日 | コメント&トラックバック(0) | トラックバックURL |



